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それでも仕事は選びたい

今日は司法試験の2日目だ。今年は自分に関係ないと思いつつも、気にしてしまう。皆が頑張っているときに自分が無為に時間を過ごしていることが残念でならない。

司法試験に受かれば、司法修習を修了後、弁護士になる資格が与えられる。裁判官や検察官になる人もいるだろうが、このような公務員になるには、年齢が若いことや、司法試験及び司法修習の成績が良いことなどが求められる。私の年齢では、弁護士になるより仕方がないだろう。

弁護士は自由業だから、何の保証もない自営業だ。その代わり、仕事を選ぶことができる。医者のように法律で受任義務が課されることもない。これは裁判官や検察官にはない魅力だといえるだろう。

ふと思ったことだが、かりに私が弁護士を開業して、あまり儲からなくても、やはり仕事は選びたいと思う。その基準には、もちろん金銭的にペイするか、ということもある。私だって食べていかなければならないし、借金も返さなくてはならない。でも、それ以外に、私は後味の悪い仕事はしたくない、と思った。不正義の味方はしたくない。また依頼者が弁護士にウソをつくなど、裏切行為をした場合も許せない。

なぜ、こんなことを急に思ったのかというと、私が普段苦しめられている過去のトラウマは、上述のような事件に巻き込まれたせいだからだ。私をひどい目にあわせた人間は、弁護士を使って私を攻撃した。その相手は、弁護士に対して、自分に都合のよいウソをついていた。その弁護士は、途中でそれに気付いたが、自分を裏切った依頼者を切り捨てることはしなかった。そして、最初は私に対して媚を売り、話をごまかして和解に持ち込もうとしたが、私はキチンとした謝罪がない限り許すことはできないと思い、これを無視した。すると、その弁護士は、今度は相手方と共同して、ウソをつき、私の人格を攻撃し始めた。

この事件により、相手のみならず、弁護士も私から等しく恨みを買うことになった。この恨みは10年以上が経過した現在も消えずに残っている。そして、この恨みは、被害者である私をずっと苦しめている。

弁護士が、自分の依頼者に有利な結果をもたらすために、力を尽くすのは商売でありしかたがない。しかし、自分の依頼者がウソをついていることを承知しながら、共同してウソをつくということは、許されることではない。この弁護士は、依頼者にウソをつかれたことが分かった時点で、委任契約を解除し、損害賠償を請求するべきであった。それをしなかったがために、私のみならず、相手方や弁護士自身に対しても大変不幸な結果をもたらした。

私は、将来弁護士になることがあった場合、このような後味の悪い仕事だけはすまい、と思う。弁護士の仕事上、人から恨みを買うことがあるのは仕方がない。でも、自分で自分のしたことに悔いがなければ、人から恨みを買っても、後味の悪さが残るということはありえない。しかし、ウソつきの味方をして、何の罪もない人間の人生をめちゃくちゃにした結果、長年にわたる恨みを買うなどということは御免だ。今、司法試験を受験している人が、将来どのような法曹になることを夢見つつ頑張っているのか、を想像し、ふとこんなことを考えた次第である。

辛い思い出

辛い思い出は、起きている間のみならず、寝床の中にまで追いかけてくる。私は24時間、これに苦しめられる生活を10年以上、送っている。

一時ほどではないが、やはり時々は殺意が頭をもたげてくることもある。これを今のところ実行に移さないでいるのは、このようなことで自分の人生を終わりにしてよいのかという葛藤である。世の中には殺しても殺したりない奴が山ほどいる。でも法律は自己救済は禁じている。というより、そもそも犯罪を個人の権利の侵害ととらえるより、むしろ国家に対する社会契約違反、ととらえている。

だから私は復讐を国家から禁じられているのだ。でも、前にも書いたが、世の中、法律ですべてが解決するわけではない。私は復讐をすることに倫理的な躊躇は全く感じない。しかし、どんなにひどいことをしても、刑法の犯罪構成要件にあたらなければ罰せられることはないし、逆にどれほど理由のある事情があっても、違法性や責任が阻却されないかぎり、人殺しは罰せられる。犯罪を禁圧するために、最大の人権侵害である刑罰をもってする、という方策は、その意味で奏功しているといえるだろう。

まあ、それはともかくとして、いい加減しんどい。今日から司法試験だが、私はまだ勉強ができないでいる。このままで、私はどうなるのだろう。どのような死に方をするのだろう。

いよいよ明日…

明日から司法試験が始まる。私は今回も棄権だ。この1年、勉強ができなかったのだから仕方がない。でも、とうとう受験回数を1回無駄にしてしまうことになった。ワンストライクである。残りは来年、再来年のあと2回。

今年の試験をあきらめた私にとって大事なのは、明日で来年の試験まで1年となるということだ。昨日も書いたが、来年勝負するためには、どんなに短くても1年は全速力で勉強し続けることが必要だ。この時間ばかりは、どんな天才がどれだけ頑張っても、どうにもならないだろう。

だが、明日から私は丸1日勉強ができるか。多分できまい。なぜなら今日できなかったからだ。過去の辛い事件については、大分心の整理がついてきた。でも、それでもそれを思い出さなくなったわけでもないし、思い出せば辛くなることも変わりない。今日も全く勉強が手につかず、ずっとギターを弾いていた。曲は中島みゆきの『りばいばる』。暗い歌だが、何だか今の私の心情にぴったりくるのだ。

明日の予定は立たない。でも時は私を待ってはくれない。何もしなければ、何もしないまま確実に時は過ぎてゆく。私の努力で何ともならないのなら、あとは神に祈るしかない。どうか私に力をください。

先週末

先週末は、親の家に行ってきた。正月以来で久しぶりである。行ったのにはいろいろ理由があったのだが、1つは昨日が母の日だったからだ。現在、稼ぎのない自分が、金をかけたプレゼントを母親に送っても喜ばれまい。プレゼントは安いものでいいから、自分で持っていくことで気持を表現しようと思ったのだ。

最近、月日が経つのは速いと感じずにはいられない。自分の姿を鏡で見て、白髪が増えたこと、太ったことを目の当たりにし、親に会いに行き、両親とも体のあちこちにガタがきていることを見ると、私の人生もいよいよ後半に入り、これから親の死や、やがては自分の死にも直面することなどを自覚せずにはいられない。

母の日といえば、旧司法試験の択一式の試験日だった。たしか私は7回ぐらい受けたのだろうか。そのうち合格できたのは1回のみであった。今は母の日ではなく、その後あたりで合計3日間の司法試験が行われる。今週の16日からがそれだ。私は今年も敵前逃亡になりそうだ。仕方がないと思っている。でも、何とか来年は勝負できるようにしたいとも思っている。そのためには、1年前の今から全力疾走で勉強ができなければならない。今の目標は、来年の司法試験に向けて、1年前の今、全力疾走できる自分にすることだ。

人間としての深み

ここ数日で、いろいろな心境の変化や「気づき」があり、それをこの日記に記してきたが、今日もまた1つ気がついたことがある。

私は、過去にいろいろな人間から不当な仕打ちを受け、そのことを思い出しては悔しく思って辛くなることがよくある。どんなに忘れようとしても忘れられない過去がある。

私は、忘れられない過去から解放される道が今まで見つからずに困っていた。でも最近では、過去から解放される道は、過去から逃げて忘れることではなく、過去に正面から向き合い、過去を自分にとっての経験として積極的にとらえることではないかと思うようになった。

私は数日前、ここに「殴れ殴れ」と題する文章を投稿した。口で言ってもわからぬ馬鹿者は、殴るべきだ、という趣旨の文章だ。法律的に殴ることが許されるのは正当防衛の場合のみだが、世の中、法律ですべてカタがつくわけではない。たとえ法律違反を犯すことになっても、殴るべきときは殴るべきだ。これは正しいと思う。

でも、どのような相手を「殴られなければ分からぬ馬鹿者」と判断するかは難しい問題だ。これには誰にでも通用する基準というものはない。判断は、その人の人生経験によってなすしかない。過去に、馬鹿な奴らと関わってしまった経験というのは、こんなとき役立つものではないかと思うのだ。殴るべき相手を判断する、このことが正確にできることは、過去の悔しい経験によるものなのだ。そう考えれば、無駄と思えた経験も、自分を成長させてくれた貴重な経験とすることができる。このような経験をした者は、人生経験の貧しい者に比べて、数段、人間としての深みを持っているといえる。

これからは、悔しい過去を思い出しても、それを辛いと考えるのではなく、いつ再び馬鹿者が自分に近づいてきても、それを殴るべきか否かを即座に判断する予行練習をしているのだ、と考えるようにしたい。このように考えれば、私自身も救われるのだと思うのだ。

そろそろ卒業しなければなあ

今日も物事に集中できない日だった。何だか、何をするにも情熱が湧かない。いままで楽しいと思っていたことも、どうでもよくなってきた。数日前から時々、軽いめまいがして体調もおかしい。

家にいても落ち着かないので、何の目的もなく外に出た。電車の中でふと思った。「そろそろ卒業しなければなあ」。私には、ここ10数年も引きずりっぱなしのことが3つぐらいある。これまでも「いつまでもこだわっていてはいけない」と思いつつ、自分の気持ちを整理することができなかった。しかし、今日は初めて自分の心の中から「そろそろ過去を振り捨てるときだ」と思えた。

外出すると、1万円以上、無駄遣いをしてしまった。でも、明日から過去を卒業し、新しい自分に向かっていけるのなら、このくらいの損は何でもない。

帰宅して、数年ぶりにあることをすることができた。将来に少し希望が持てるような気がする。

ある人から連絡がきた。あまりにも自分勝手な内容であきれた。

ダイエットは停滞期のようだ。ここ1週間ほど、体重が減っていない。一番重いころからは、8キロも減ったが、それでも自分の姿を鏡に映すとまだまだ脂肪太りでぶよぶよしていてみっともない。早く痩せなければ。

多分、今日のこの日記はあまりにも散漫で、読んでいる方には何のことかさっぱりわからないであろう。そう、詳しいことは秘密なのだ。

タイプの女性

ここ何年も、私は女性と付き合いたいなどと思ったことがなかった。仕事もせずに、うつを抱えながら受験勉強をしている身では、そのような余裕もなかったのだ。しかし最近なぜか、実現可能性は別として、自分が今度付き合うとしたらどのような女性がいいか、を考えるようになった。

まず私は、もうこの年齢で、しかもこれから仕事に就けるかどうかもわからないから、子供を持つのは難しいだろう、持っても育てられない、と思っている。そうだとすれば、同じように子供は持たないという選択をしている女性がいいだろう。自分と同年代ぐらいの女性がいい。私の年代の女性なら、もはや肉体的に出産をすることは難しいから、後で気が変わるということもないだろうからである。

次に求めたいことは、会話能力が優れている人がいい。この「会話能力」には聞き上手も含まれる。女性は総じて男性よりおしゃべりだが、必ずしも「会話能力」は高くない。延々と自分の話だけをマシンガンのように続け、こちらには相槌をうつ余裕さえ与えないような人もいる。こちらがやっと話を始めようとすると、すぐに自分の話にしてしまい、場を白けさせる人もいる。上手に会話するというのは、極めて高度な知的作業だ。自分の話がインテリジェンスにあふれて面白いと同時に、相手の話もよく聞き、適切な相槌をうてる、頭のよい人がいい。

次に、やはり現状の私をありのまま受け入れてくれる人でないといけない。私には借金があること、うつを患っていること、今は仕事をしていないこと、などだ。男を経済的に頼る存在だと思っている人では、私と一緒にうまくやっていくことは難しいだろう。逆に経済的に自立しており「あなたが仕事に就けなかったら、私が養ってあげるわよ」というくらいの豪胆なキャリアウーマンがいい。

姿形にはこだわらない。生理的にこれはダメ、という場合はあるだろうが、そうでなければ別に美人である必要はない。私はこれまで美人と付き合ったことはほとんどない。美人にあこがれたことはあったが、実現はしなかった。これは自分は本心では美人を求めていない、ということなのだろう。そして美人の方でも私を求めてはいない。だったら美人は必要ない。

まあ、以上のようなことは単なる妄想に過ぎないから、自分にとって高すぎる理想を言っても別にかまわないだろう。女性に高い理想があるなら、自分もそれにふさわしい男にならねばならない。私の妄想も、その努力のきっかけでありさえすれば、それでよいのだ。

殴れ殴れ

私は、以前、フルコンタクト空手をやっていたことがある。

もっとも、膝の骨折(脛骨高原骨折)をきっかけにやめてしまい、結局、半年ほどしか続かなかったので、とても「やっていた」などと言えるものではない。まったくの初心者だったから、帯はもちろん白で終わってしまった。

それはそうと、私は武道をやる意義は、まず心身の鍛錬、そして次に護身だと思っていた。空手のような格闘技は、実戦性を持つことが重要だが、実力を実際の社会で使うことが許されるのは、正当防衛の場合に限られると思っていた。確かに、法律の観点からいえば、それは正しい。

でも、最近は考えが変わってきた。世の中、きれいごとばかりではわたっていけない。法律の観点はともかく、もっと自分は怒りを早い段階で外に向かって表現することが大事だと思うようになってきた。私はどちらかというと、我慢に我慢を重ねて、最後に怒りを爆発させるタイプだ。だから、我慢している時間が長いので、よく人になめられる。そして、こちらがついに我慢できなくなって怒りを表現すると、相手は、いかにも意外、という顔をして、脅しにかかる。それでもこちらがひるまないので、次に相手はこちらを懐柔にかかる。そのようなインチキは、私はすぐに見破れるので、相手に対してNOと言い続ける。そして、ついに戦争に突入する。いつもこのようなパターンばかりだったような気がする。

実に残念なことだが、世の中、このように、殴らなければわからない馬鹿者がたくさんいる。人をなめくさって支配しようとする奴、故意に人を傷つけることを何とも思わない奴、人を差別する奴、礼儀を守らないことが平等主義だと勘違いをしている奴、などなどだ。このような人間に対しては、もっと積極的に実力を行使すべきだと思うのだ。刑法36条の「自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」などという、相当性の要件はきれいごとだ。世の中、1発殴られたら3発、いや10発殴り返すべきなのだ。それが本当の「防衛するため」ということだ。喧嘩を売られたら、逃げるより買った方が安全、ということはいくらでもある。私は、もっと人を殴るようにしようと思う。殴れ、殴れ、だ。たとえ相手が老人であろうと、女であろうと関係ない。人を平気で傷つけておいて「自分のようなかよわい者を殴るなんて卑劣だ」などという弱者の立場を利用した、卑怯な言い分を聞くべきでない。殴れ、殴れ。

極真空手の創始者であるマス大山氏も「空手の技を使うべき時に使わなくてどうする。何のために空手を習っているんだ」と言って、極真空手の悪口を言った者を殴った弟子を擁護したことがある、と本で読んだことがある。一方、有名なマンガの『空手バカ一代』では「空手を私闘に用いたものは破門とする」とか言って、正当防衛さえ禁じた大山氏が描かれているが、私は本当の大山氏の姿は前者であったのだと思う。そして、それが正しいあり方だと思う。私が再び格闘技を始める可能性はあまり高くはないが、もしまたやることになったならば、今度は本当に、実際の社会で実力行使をすることを第一の目的として、稽古をしようと思う。当然だ。人を殴る意思が全くないのに、殴る技術を習ってどうする。そんなのはただのオタクだ。技術を習ったら、使わなければ意味がない。殴れ殴れ。

今日の診察

午前中は心療科の診察。いつも通りの「どうですか」とのドクターの問いに「前回とあまり変わりありません」と答えた。特に報告すべきこともなかったからだ。ただ、これだけではあまりに取り付くしまもないかと思い「問題は、やはり勉強ができないことと、過去のことを思い出して辛くなってしまうことがあることです」と付け加えた。さらに「眠りの方は浅いのですが、何とか薬なしで眠れてます」と言った。

ドクターは「そうですか。よしよし。では今回からアモキサンをなしにしましょう」と言って薬を減らすことにした。さらに「まあ、季節もよいことだし、いろいろ意欲をもって取り組んでみてください」のようなことを言った。

薬が減ったのはグッドニュースだ。だが、やはり私の最大の問題は、過去のことを思い出して辛くなってしまうことだろう。分かってはいたが、これに関しての解決策は提示してもらえなかった。ドクターが言ったのは「季節もよいことだし、いろいろ意欲をもってやってみて下さい」ということで、何の解決策にもなっていない。これで私が過去の出来事から解放されるのなら、とっくに解放されている。何しろこの問題は、過去10年以上にわたって私を苦しめているのだ。そう簡単に解決するはずもない。やはりこの問題ばかりは、医者に期待をしても無理なのだ。自分で治すしかない。

今日はもう数時間で終わる。明日こそは気持ちをリセットして頑張る、と言いたいところだが、正直まだできそうもない。また明日も同じような日を過ごすのだろう。私の病気は、時が癒すのを待つしかないのか。いや、そもそも待てば癒されるのかさえわからない。第一、いくら「いつか時が癒してくれる」と言われたところで、癒されるのに何十年もかかるのであれば、それは「癒された」ことになるのだろうか。人生の何分の1かを苦しんで過ごしたすえ、最後に「癒され」ても、その時はもう自分の人生の時間がほとんど残ってなければ、これは「救われた」ことにはならないのではないだろうか。私にとって、この病気で苦しんだ時間は、何か意味があったのだろうか。さっぱりわからない。

連休も終わり

今日でGWも終わりだ。普通の人にとっては名残惜しいものだろうが、私のようなプータローにとっては、GWなどむしろ早く終わってしまって欲しい。休みなら毎日とっているからだ。

明日は心療科の診察がある。最近は、不眠もなく、何もできないような酷いうつ状態もない。ただ問題点は勉強ができないことだ。この原因はよくわからない。うつはもう治っているような気もするし、そうだとすれば、勉強ができないのは単に怠けているだけなのだろうか。そうであるような、そうでないような、よくわからない。

明朝は、家を出る前に少し部屋の掃除をしようと思うので、今夜はもう寝ようと思う。おやすみなさい。

よう降るなあ

ここ3日ほど、ずっと雨が降り続いている。ほとんど外出もせず、ずっと家にこもる日が続いている。家に1人でいるが、勉強には手がつかないままである。時間の過ごし方は、ギターとビデオ、パソコン将棋であり、あとは昼寝をしている。

このように怠けた生活をずっと送っていることについて、罪悪感を感じているが、無理に勉強しようとすることはやめようと思っている。かえって逆効果になることを恐れるからだ。今の状態は、勉強はできていないが、自分の趣味ならできているという状況だ。これは、何をする気にもなれず、自殺などのネガティブなことばかり考えている本当のうつ状態に比べれば、はるかにましである。

ところで、ダイエットの方は、まあまあ順調である。体重が減る速度は落ちたが、それでも少しずつ減量が進んでいる。これは食べ物によるところが大きい。運動を行えばさらに効果が表れるのだろうが、今のところジムに行く気力がない。

明日は眼科での診察を予約している。明日天気になあれ。

パラサイト中年

今日、ネットのニュースで「パラサイト中年」というものが増えている、という記事を読んだ。長引く不況の中、非正規雇用が増え、職を失った中年の人たちが再就職できず、結婚もできず、独身のまま、年老いた親の年金をあてにして暮らしているというケースが増えているというのだ。

まさに、このパラサイト中年は、私が将来当てはまりそうな気がする。現在の雇用情勢の中、私の年齢でまともな就職ができるはずもない。たとえ司法試験に受かったとしても、今は就職が非常に厳しくなっており、修習を終えても法曹になれない人が相当の割合でいるという。またかりに就職できたとしても、収入は信じられないほど低いらしい。弁護士になって、年収が300万とか400万もらえればいい方だという。

私事ながら、私は29歳で英語教師をやっていたとき、年収で700万を越えていたことがある。今から20年も昔のことだ。そのことを考えると今から司法試験をやって苦労することがバカバカしくも思える。でもパラサイト中年になってしまっては迷惑そのものだから、条件が悪くとも我慢するしか仕方がないのだろう。

別に就職だけが司法試験をやる目的ではなかったから、これだけで受験をやめてしまうということはないのだが、モチベーションが上がらないというのも事実だ。今日も1日勉強に取り組むことができなかった。一日中降り続けた雨の音を聞きながら、ギターを弾いたり、ビデオを見たりして過ごした。私が勉強に身が入らないのは、今やうつのせいだけではないと感じてきている。閉塞状態なのは、私の心だけではなく、社会全体がそうなのだ、と思った。

気付き

ふと気づいたことが2つほどある。

一つは、よく私は「あの時、こうすればよかった、ああすればよかった、あんなことはしなければよかった」と悔しく思い、その後悔から逃れられなくて辛い思いをすることがあったが、過去の私の行動は、すべて私だからこそとった行動だった、ということだ。ああすればよかった、と今になっていくら思っても意味はない。そのような行動を取るのが私というものであり、実際にはほかにどうしようもなかったのだということだ。そうだとすれば、そのような過去の結果である現在の自分は必然であり、否定するのではなく受け入れるのが妥当である。過去を悔やんでくよくよする必要はないのだ。

もう一つは、今私はうつで苦しみ、勉強ができずに困っているが、これは勉強自体のせいではないということだ。よく私は勉強していても、さまざまな雑念が生じてきて勉強に集中できず、しまいには頭にきて本を壁に向かって投げつけることがある。しかし、憎む相手は勉強ではないということだ。当たり前のことだが、今まで私は何となく勘違いしてきたように思われる。勉強自体が悪いものでないとしたら、たとえ雑念が湧いてきたとしても、それはそれとして勉強に集中することはできるはずだ。私は、音楽をやっているときは頭が空っぽになり、集中することができるではないか。司法試験といえども、単なる資格試験に過ぎない。そんなものが克服できないほど難しいものであるとは思えない。そうだとすれば、勉強を音楽と同じようにとらえて、集中することは不可能ではない。勉強を快楽にすることはできる。

別にどうということもないことだが、少し心が軽くなったような気がする。忘れないうちにここに書き留めておく。

We've got to have fun.

今のところ、やっぱり勉強の方はうまくいっていない。どうしても集中力が続かず、苦痛なばかりだ。昨日もそうだった。

昨夜は、知り合いのライブに行ってきた。終わった後は皆で飲みに行った。大いに盛り上がり、皆、終電近くまで付き合った。

どうしても過去の嫌な思い出に囚われて、過去10年以上うつに罹って苦しんできた私でも、このような気のおけない仲間と集まって過ごす楽しい時間には、つかの間だが嫌なことを忘れることができる。うつは努力することを不可能にしてしまう病気だ。どんなに苦しい時でも、頑張ることさえできれば何とかなると思うが、頑張る能力自体を奪われてしまうと、そこから脱出することが非常に困難になる。

そうだとすれば、私が現状から脱出するためには、楽しいことをするしかない。勉強も仕事も、すべて楽しいことだけをするのだ。人は「そんな甘えた都合のいい話が通るか」と思うかもしれない。でも何と言われようとかまうものか。私が前に進むためには、それしかないのだ。それが私の経験に基づく結論なのだ。

"We've got to have fun."というのは、私が15年以上前に通訳学校で学んでいたころ、アメリカ人の同級生が言った言葉だ。私はクラスでは優等生の方だったが、その同級生はそうでもなかった。ユダヤ系の頭がいい人で、日本語はベラベラだったが、通訳となると難しいらしく「ここへきて、自分は初めて劣等生の気分を味わった」というようなことを言っていた。同級生はもう通訳の勉強にはうんざりした、人生はもっと楽しまなければならない、というような文脈でこの言葉を言ったと思うが、なぜかこの言葉は私の頭の中に残っている。まじめすぎる日本人は、この発想を学ぶべきだろう。人生、すべからく楽しむことを優先すべきだ。

調子思わしからず

ここ数日、あまり調子が良くない。何もできないというほどではないのだが、いざ勉強に取り掛かってみると、いろいろな雑念が湧いてきて、集中できないのだ。ここしばらく調子が良くて、過去のトラウマからは何とか抜け出せるのではないかと思っていたのだが、やはりトラウマはトラウマのようだ。

昨日は、朝サウナに行き、帰ってきてからはずっとビデオを見ていた。どうしてもやる気が起こらない。もう試験も近いというのに。ロースクールで共に学んだ同級生たちは、最後の追い込みで頑張っているところだというのに。たとえ自分は今年棄権して、来年にかけるとしても、今から勉強が軌道に乗っていなければ、それもおぼつかない。焦る気持ちはあるが、どうしようもない。でも、今日は何とかまた勉強に戻ってみようと思っている。

ところで話は変わるが、ダイエットの方は順調である。昨日体重を量ったら88キロまで落ちていた。この調子でいけば、来月中に80キロ台を切ることもできるのではないか。腹回りもすっきりしてきたように感じる。数キロ体重を落としただけで、かなり身軽になったと感じることができ、階段の上り下りなども数段楽になった。成果が目に見えるとますますやる気が出て、好循環となる。勉強の方もこううまくいけばいいのだが。

歳をとるのは素敵なことです

ここ数週間、かなりのカロリー制限をしている。たとえば、以前は朝食におにぎり2つ、ヨーグルト1つ、ジュース1つ、とか食べていたのを、今はゆで卵1つに野菜スープ、などとしている。昼食だけは以前と同じくらいのカロリーだが、夕食は、以前定食セットを食べていたのが、今では豆腐1丁に納豆、というような食事だ。おかげで体重は、一時96キロ以上あったのが、とうとう昨日90キロを切った。最終目標は60キロ台である。

こういうと、ずいぶん無理をしているようにも思えるかもしれないが、私の場合、不思議なもので、ある日突然、夕食が豆腐1丁でも満足できるようになった。それからというもの、朝食にもカロリー制限を加えて現在に至っている。だから悲壮感は全くない。以前はダイエット食など、いくら食べても空腹が満たされず、辛くてたまらなかったが不思議なものだ。今のところ、食事については飽きがこないようにとか、ストレスがたまらないようにとかにむしろ気を使っており、摂取カロリーについては問題は見当たらない。

私はまだ痩せていた数年前まで、自分はまだまだ20代の容姿を保てると思っていた。何しろ私は30台後半の頃、人から「あなた学生?」と訊かれたことがある。私はかなり年より若く見えたのだ。しかしここ数年というものの、急に太りだし、また白髪が増えてきたこともあって、急に年相応に見えるようになってしまった。

老けていくことが、一時は嫌だったが、最近では歳を取った自分のことを悪くない、若いころより人間として魅力的だ、と思うようになった。若い頃は、人生の経験不足から無知だったり、人の気持ちを思いやることができなかったり、礼儀知らずだったり、事において正しい判断ができなかったりすることが多い。若い頃のことを思い出すと汗顔の限り、ということは誰にでもあることだろう。歳をとるのは素敵なことなのだ。

だが、肥満していることは受け入れることができない。格好悪いばかりでなく、不健康だからだ。今回は必ずダイエットを成功させて、魅力的な中年を目指そう。

改善?

ここしばらく、調子がいいようだ。
今月の初めごろから、なぜか寝る前の薬なしで眠れるようになった。今日は心療科の診察だったが、このことを報告すると、眠剤の処方は今回からなくなった。

うつの方も、一時に比べればかなり楽になったように感じる。もっとも、まだ勉強をしても雑念が生じ、集中力に欠けるところはあるのだが、全く勉強に手を付ける気にならなかった頃に比べれば雲泥の差だ。これで改善が進み、勉強に集中できるようになれば、合格でも何でもできる気がする。明るい気持ちになれる。

音楽をやると頭が空っぽに

今日の天気は曇。気温は11℃でかなり寒く、ストーブを焚くくらいだ。

一昨日はボーカルのレッスン。レッスンは、何と体のストレッチから始まる。体をほぐすことにより、声を出す筋肉もリラックスするのだとか。確かにレッスンを受けた後では、いつも出なかった高い声が出るようになっていることがわかる。このようなことは、やはり独学では学びえない。金を払って教わる価値があるというものだ。

昨日はギターのレッスン。クラシックギターの基礎と、弾き語りを習っている。私がギターを始めたのは、もう20年以上も前だが、以前はほとんど独奏一本やりだった。しかし、やはり大人になってから始めたクラシックには限界がある。そこで今は弾き語りの方に興味を移している。昨日は3連符のストロークのやり方を習った。思いっきりジャンジャカジャン、とかき鳴らすのだ。

音楽を習い、先生の言うことを素直に聞いて、指示の通り五感を働かせると、頭の中が空っぽになり、その時間だけは余計な雑念を追い払うことができる。これはうつにはいいだろう。最近は夜もまあまあ眠れるし、気分がよくなってきた。ただ勉強に対する集中力は、まだ足りないのだが。

今日は特に予定もないので、択一の問題を解いていきたい。

昨日と今日

昨日
親との緊張関係は、一応解消した。
朝は親にパソコン指南。

昼食は、ランチのすし。490円なり。すしはややカロリーがあるが、同じようなダイエット食ばかりでは飽きてしまうので、時々は自分に許している。

午後は、近所のホームドクターのところでメタボ指導。自分なりの食事制限が功を奏し、体重が減っていることを報告すると「確かに前お会いした時より小さくなっていますね」と言われ、ビックリして「え!本当に見てわかりますか?」と言ってしまった。まさかお医者さんがおべっかを言ったとも思われないから、本当なのだろう。
診察が終わったらスポーツジムへ。かなり汗をかいた。

夕食は、野菜スープ、なっとう、冷奴、キムチ。

今日
夕方にボーカルのレッスンがある。

私はどうすればいいのだろう

昨日はショックでロクに飯も食わず、薬だけ飲んで7時に寝てしまった。
今朝もほとんど飯を食わず、薬だけ飲んだ。
何もやる気が起きない。また寝ようと思う。

いい歳をして、年老いた母親を傷つけてしまった。
家族から吊るし上げを食うかもしれない。
予測できないことではなかったが、私としてもそうする以外なかった。
結果は甘んじて受けよう。

気分が治ってくると

汗ばむような昨日の天気から一転、今日は冷たい雨が降っている。まだまだ気温の上下は続きそうだ。桜も、もはや完全に見納めだ。

ここしばらく、全く勉強できない日々が続いてきた。無理をせずに思い切り怠ける生活を送ってきた。それが良かったのか、少しずつ気分好転の兆しが見えてきた。「悔しい過去に囚われてはいけない。今をどう生きるかが大切だ」「自分は目も見えれば耳も聞こえる。大抵のことはできないはずがない」などとポジティブな思いを持てるようになってきたのだ。

これまでもこんなことはあり、その度にやがてまた気分が沈んでどうしようもなくなるという風に、期待は裏切られてきた。多分、今回も気分好転は一時的なものだろう。期待しすぎて後でがっかりするのは、もういやだ。でも、たとえ一時的なものでも、それが繰り返されるうちに、少しずつ良くなっていくということだってありうるかもしれない。とりあえず、今、気分が好転したことを素直に喜ぼう。今日は少し勉強ができるかもしれない。

勉強はできないが

今日は気温が20度まで上がり、暖かい1日だった。桜はまだ残っていたが、そろそろ見納めが近づいているようだ。

勉強の方は、まだ取り掛かる気分になれない。焦っても仕方がないので、自然にその気が出てくるまで待とうと思う。ジムに行って運動してくることはできた。つまり、何もできないという、ひどいうつ状態ではないということだ。それだけでも今は良しとしよう。

明日はギターのレッスンがある。楽しんでこよう。

夢うつつの中で考えた。

自分をこんな病気に追いやった人間に対して、もう一度文書で抗議しようかと。

でも、本当に自分はそうしたいのか、と自問してみれば、やはりやりたくないと思った。

自分にとって、この過去にかかわり続けることは、未来をあきらめるということだ。

そう思ったということは、やはり私は未来をあきらめたくないのだろう。

たとえ、具体的に何の光も見えなくとも、

最後の最後まであきらめきれないのだろう。

人間とはそうしたものだろう。

そう簡単に自分の人生をあきらめ、破滅を受け入れることなどできない。

明日は何か変わるかもしれない。

何の根拠もなくそう思い、最後まであがき続けるのだろう。

あきらめの境地

今日は1日中冷たい雨。全く外出しなかったばかりか、ほとんど寝て過ごした。眠かったわけではない。何もする気が起きなかったのだ、否、することをあきらめてしまったのだ。

昨日までの経験で、参考書に向かってもどうせ集中できない、と思うと最初からやる気が失せ、努力することをあきらめてしまった。しかし、何もせずに床の中で悶々としていることが楽なわけではない。

これまでは、来年こそは勉強をした上で司法試験に臨まなければ、努力しなければ、そうでなければ大金と労力をかけてロースクールを出たことが無駄になってしまう、という焦りがあった。しかし今日は少し違う。もうあきらめてしまったのだ。このまま来年も、再来年も勉強できずに、とうとう1度もまともに司法試験を受けることなく失権してしまっても仕方ない、と思い始めた。これだけうつと戦っても勝てなかったら仕方がない、と思い始めたのだ。昔、択一に受かった時や、ロースクールで単位を修得した時のような努力はもうできない。あのような苦しみにまた耐えることは不可能だと思い始めた。自分をこのような心の病気に追いやった者どもへの恨みも薄れ、ただただ今は目の前の苦しみから逃れたい、と思うようになった。

このままでは私の人生は絶望、ということになるが、今はそれも考えられない。明日はまた考えが変わるかもしれない。そう思って寝よう。

勉強へ戻る

今日の天気は曇り。暖かい1日だった。桜の花はまだ満開を保っている。だが、明日は強風と雨だそうで、桜も散り始めそうだ。今年の花見は昨日で打ち止めにしたが、今日、買い物で外に出たついでに、近くの公園の中を通り、公園の桜を見てなごりを惜しんでおいた。

そろそろ勉強に入らなければならない。だが、なかなか調子が出てこない。問題集に取り組もうとしても、雑念がわいてきて集中できず、文字を読んでも意味が頭に入らない。目が何度も本の同じ場所を見ている。こんなことでは、あっという間に次の1年が経ってしまい、また試験を受ける前から合格をあきらめることになる。困ったことだが解決策はわからない。医者に相談しても答はもらえない。自分でなんとかするしかないのだ。

明日は多分、外出はおっくうだから、家で勉強することになるだろう。何か進展があることを祈ろう。

花見パート2

今日は午前中、心療科で診察。午後からは千鳥ヶ淵で友人と花見。まだ東京の花見日和は続くようだが、今年の花見はこれで打ち止めかと。

花は満開。ちょうど見ごろであった。

千鳥ヶ淵

昨日の花見

昨日は今年初めての花見。少し日取りが早すぎたか、と心配していたが、杞憂だった。花は9部咲き、天候も申し分なかった。

毎年神田川で花見をするのが恒例。

桜

まず関口芭蕉庵に寄って、甘酒を飲む。毎年の楽しみなのだが、昨年は震災の影響で飲めなかった。
関口芭蕉庵の景色

関口芭蕉庵

椿山荘の前では、桜ガール(?)がポーズをとっていた。

桜ガール

明日は花見

桜の最終チェック。

いつもの枝はこのくらい。この木は、なぜかほかの木と比べて開花が遅めだ。

枝

他の木は、もうこのくらい咲いている。

七分咲き

サクラ咲く

昨日の大嵐から一転、今日は快晴。公園へ桜のチェックに行く。

つぼみ

今週の金曜日に花見の予定を入れているが、早すぎたか、それともあと2日あればちょうどよいか。

はな
場所によっては2分咲きぐらいのところもある。
プロフィール

Hajime君

Author:Hajime君
元英語プロ。英語教師から、英語の同時通訳まで手がけた。大学時代は、ドイツ現代史を専攻しながら、自力で英語を学んだ。卒業後サラリーマン生活を経験した後、英語業界でフリーランスとして働くが、業界への不信や、己の力に限界を感じたこともあって、引退。現在は、法律家を目指しているものの、うつをかかえているため、現在勉強や生活に支障をきたしている。しかし、何とかうつを寛解し司法試験合格を果たしたいと思っている。2008年4月、成蹊大学法科大学院既習者コースに入学、2010年3月同コース修了。趣味:クラシックギター、将棋、バードウォッチング、写真。関心のあること:ダイエット

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